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zoom RSS 邪悪なものの鎮め方 内田樹 バジリコ株式会社 

<<   作成日時 : 2011/01/20 01:18   >>

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画像内田さんの著書を最近よく読んでいる。
彼の思考が、私の中に共感覚を引き起こすことが多い様に感じるからなのだけれど、それは内田さん曰く、既視感を私自身が構築しているかららしい。もちろん、私は内田さんほど教養があるわけでもなく、哲学的思考に堪能であるわけでもない。にも関わらず、内田さんの明快な論の道筋をたどっていると、それが私が日ごろ漠然と感じていることを、内田さんが言ってくれているように思えてしまうのである。書かれたことを、まるで自分の記憶のように思う、というのは自分の中で記憶のすり替えが行われていることなのだろう。「本に書いてあることは、まず疑ってかかれ」という若い頃に教えられたことを忠実に守っている私としては、思想的なものを読む時は特にハザードランプをピコピコさせているわけなのだが、それをもってしても、内田さんには結構な確率で説得させられてしまう。それは何故なのかしら・・と考えながら読んでいた。

例えば、内田さんも言及しておられる、裁判員制度の話。先日、裁判員制度によって死刑判決を出した当の裁判官が、検察側に控訴を促していた。これは、裁判員の心情に鑑みて・・という発言という風に報道されていたが、この制度を取り入れた際に、一般市民が死刑判決に関わっていく可能性は当然考えられたはずである。なのに、「だから、こんな事やめときゃ良かったんだよ」というニュアンスを含むこの発言が出た、という事は、裁判の現場にいる人が、「これはおかしい」と想っているからに他ならない。アメリカはやってるじゃん、という発想で「市民感情に即した裁判」などという、「感情」に配慮した制度がなぜ司法だけに導入されたのかが、よくわからない。アメリカは、自分を守るために銃を持つことが認められている国、つまり常に自分の立ち位置、判断が求められている国。そして、その判断には、多分「父なる神」という共通認識としてのフィルターがある。「神がお許しにならない」という発想で、感情を神に預けることが出来る。私たちは、そんな神を持たない。大体、日本人は、「祟り」を何より恐れてきた。だから、時の為政者は、自分が滅ぼしたものたちを、何とか祟らないように、と必死で祀って神様にしてきたんですよ。そういう心性というのは、絶対に変えようがない。何千年も前から、私たちの土地に、血に、染みついて離れないものであり、それが私たちのアイデンティティでもあるから。でも、陪審員制度の論議の時に、誰もそんな「祟り」の話はしなかった。誰しもが祟りを引き受けなくてすむように、プロとしての司法があり、法があり、その職業を選ぶ人への報酬があり、尊敬があるはずだと私は想っていたのだけれど、その「感情」に引きずられて、私たちは昏い場所へ連れていかれてしまう。これは、やっぱり矛盾じゃないのかしら・・。昨日、ぱせりさんへのコメントで書いた村上春樹氏の言葉を借りると、裁判というシステムに全力でぶつかると、脆弱な私たちのような卵は、壊れてしまうのである。その壊れてしまった感情のフォローは、一体だれがするんだろう。

というようなことを、つらつらと考えていたのだけれど、この内田さんの「呪い」という発想、考え方に、はっとした。

私たちの時代に瀰漫している「批評的言説」のほとんどが、「呪い」の語法で語られていることに、当の発話者自身が気づいていない。「呪い」というのは「他人がその権威や威信や声望を失うことを、みずからの喜びとすること」であり、さしあたり、自分には利益はない。・・・(中略)私たちの社会では、「他者が何かを失うこと」をみずからの喜びとする人間が異常な速度で増殖している。(呪いのナラティブ)


私たちは、マスコミがやたらに叫んでいた、「一般市民と司法が下す裁判判決との感情的な隔たり」という呪詛に、簡単にのっかってしまったんじゃないか。隔たりがあるのなら、そこをどうするべきか、とじっくり考えることなしに、「どこそこもやってるから」という安易さで、呪いが生み出した結果を引き受けなければならなくなったのではないか。でも、これは多分、さっきも書いたように、日本人の心性とは噛み合わないものなのである。本質的に。
その議論をしなかったツケは、これから回ってくるんですよね・・・。
内田さんの論は、先人たちの教えを柔軟にとりいれながら、あくまでも「内向き」なのである。外へ、外へと膨張し、膨れ上がっていくことに私は常に怖さを感じる。なぜなら、その発想は、常に誰かから何かを奪い取る発想でしかないから。内田さんは、武道をやり、謡を習い、常に自分の身体一つでこの世界と対峙する訓練を積んでおられるので、その身体の矩を超えることに、敏感に否、といえる感受性を持っておられるように思う。私は、その感受性を信用している。

めったやたらに繁殖している呪いは、ネットの世界で顕著に膨れ上がっているように思う。その呪いを祓うことが出来るのは、自分の頭で考えることと、学ぶこと。当たり前のことなのだけれど、やはりそれしかないと、改めて思った次第です。よし、さしあたって、なるべく楽しく生きるぞー(笑)自分の属するコミュニティだけは、何とか少しでも居心地良くできるように。それだけでも、私には大きすぎるほどのチャレンジやな。(どんだけ小者やねん!)私は好き嫌いの非常に激しい人間なので、人を愛する修行が出来ていない。その事は、自分が一番よくわかってる。あと、勉強しなきゃ。ほんとに勉強しなきゃ、と想うのがこの年齢になってから、というのが嘆かわしいなあ・・。


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