さよなら渓谷 吉田修一 新潮社

画像上手いなあ・・と読み進めるごとに思う小説でした。ざわざわと不穏な気配を漂わせる冒頭から、この夫婦には何かある・・と思わせる。

渓谷のある集落で、起こった幼児殺人事件。その容疑者の家の隣に、若夫婦が住んでいる。一見何の変哲もない、尾崎とかなこという夫婦。しかし、取材にいった記者はひょんなことから、二人の過去を知ることになる。二人は、昔起こった集団レイプ事件の被害者と加害者だったのだ。

この二人がどういう経緯で一緒に暮らすことになったのか、それが・・段々と浮き彫りになるんです。記者の取材、折々はさまる尾崎の回想。そして、生活感のない家の中で、ひっそりと暮らしている、二人の間に漂う緊張感。それがうまく機能して、一つの事件が引き起こした、なんともいえないやり切れなさを浮かび上がらせていく。その手腕が読みどころです。

性犯罪、というのは、人間の一番割り切れない部分である性がからむことで一層やりきれなくて、難しい。事件のあと、被害者としての女性、加害者としての男性、どちらが生き難いのかというと、これは圧倒的に女性。この物語にも描かれているように、男は、その行為を、どこか心の中で許している。もちろんいけない事だとわかっていながら、自分の中のどこかに、同じ衝動が眠っていることをわかっているから。そして・・これは、たまらない事だけれども、なぜか被害者の女の方が「ケガレ」とみなされていくのである。その「ケガレ」は本当にあるケガレではなく、観念の中の「ケガレ」だから、その本人がそこから逃れることは難しい。読めば読むほど、彼女がその後歩いてきた苦しみの深さが、胸に刺さって苦しい。父親にも疎まれ、婚約者から自分の過去を会社中にばら撒かれ、やっと結婚した相手には、DVを受けることになるかなこはまるでこの社会の中で、汚れたものとしての烙印を押されたようなもの。

一方、尾崎は、野球という舞台からは降りたものの、そのまま忘れて生きていこうと思えば、そうできた。しかし自分を許してしまう男社会の中で、ずっと違和感を感じながら生きてきた。かなこを忘れることができなかった。そして、彼女が不幸だと知ったとき、その男社会を捨てて、かなこの傍にいることを選んだ。

誰かに許してもらいたかったかなこと、許されたことが耐えられなかった尾崎。その被害者と加害者が逆転してしまうところに、この男社会の難しさがあるようでもあり、もう一つ踏み込めば、男と女の性差のもつ、どうしようもない落差がある。生き物としての人間が、その「性」を飼いならして社会を作っていることの矛盾。その中で、正面から唯一向き合う関係だった、この二人のあり方が切なくても、唯一の救いに見えてくる。世間といわれるもの・・例えばワイドショーの報道のような、ベタベタの手垢にまみれた価値観から出発して、この二人の間に流れていた、この世でたった一つの大切なものを描き出した、その流れにやられました。苦しみの中で見つけたその大切なものの手触り。このかけがえのなさが、救いでした。久々に読み応えのあった大人の小説。重いですが、読む価値ありです。





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この記事へのコメント

じゅずじ
2008年09月04日 14:48
またまた難しいテーマでした。
被害者と加害者、法で裁くにはあまりに被害者の不利益が大きすぎるような。
最後に一緒になってくれれば、まだ読んでいる方としては気楽になれたのだが…
ERI
2008年09月05日 01:25
>じゅずじさん
難しいテーマでしたねえ・・。不幸になるために一緒にいる、というそこが、まず悲しすぎる。こういう問いかけを抱えていく力って、でも大事なことかもしれませんね・・ほんとに、難しいことですけれど。
トラキチ
2009年02月08日 16:48

ERIさん、こんにちは♪
またまたお邪魔します。

数人の感想を読ませていただきました。
ERIさんもそうですが、女性読者の方の感想は本当に切実でうまく書かれてます。

私はどちらかと言えば吉田さんの立場に立って考えてしまい、ちょっと無理があったかなという気がしました。
恋愛に結びつけるということがです。

まあ、敢えて難しいテーマに挑戦している吉田さんの成長を讃えたいとは思ってますが。

小説としては緊迫感があって面白かったと思います。
ERI
2009年02月09日 21:46
>トラキチさん
ほんとに、難しいテーマをかかれますよね、最近・・。作家として、どんどん大きくなられて、素晴らしいと思いますよ。こういう問題って、ほんとに難しい。男性が書くのは、もっと難しい。そこを正面きって切り込んだのが凄いと思います。