お父さんのバイオリン ほしおさなえ 徳間書店

画像最近、人の心の無意識の領海の大きさについて、よく考えます。私たちが意識している部分の下に、膨大な量の何かが眠っているーというのは、若い頃にユング心理学をかじったときから知ってるつもりだったのですが。知ってるつもりと、それが身に沁みてわかることの間には、大きな大きな壁があるんですよね。この年齢になってそれを実感します。河合隼雄さんもおっしゃっていましたが、自分の中に眠る未知の領域に足を踏み込むことは、非常に恐い、怖ろしいことです。でも、そこから目をそらしていると、いつしか一歩も身動きできなくなる時がやってくる。それをきつく実感しているので、この物語の伝える痛みが身に沁みて感じられました。見ないように蓋をしていたものが暴れる時、身体と直結してSOSを伝えてくることが多いんですよね。この物語の主人公の少女も、そんな身体症状にいきなり襲われて、自分でもどうしようもなくなってしまいます。

12歳の梢は、幼い頃からバイオリンを習っています。幼い頃に亡くなってしまったお父さんから手ほどきをうけたバイオリンは、梢にとって、とても大切なもの。ところが、ある日学校への行きしなに、交通事故を見てしまった時から、右手が動かなくなってしまう。バイオリンが弾けなくなってしまうんです。折しも、お父さんが演奏してたオーケストラも経済的な事情で解散せざるを得なくなり、そこでライブラリアンの仕事をしていたお母さんも、職を失ってしまいます。気力を失ってしまったお母さんは、夏休みの間、自分の実家である山の中にある綿町というところに、しばらく帰ることにします。そこで、二人はそれぞれに、お父さんを亡くしてからの自分と向きあうことになります。

YA作品でおばあちゃんと孫というのは、とてもいい感じに描かれることが多いんですが、この物語でもそうです。昔果樹園をしていた名残りで、今も美しいシロップ漬けを作るおばあちゃんは、ふんわりと帰ってきた娘と孫を受け入れる。梢は、そんなおばあちゃんに、自分がバイオリンを弾けなくなったきっかけを話します。偶然見てしまった交通事故現場が、奇しくもお父さんの死んでしまったときの場所と同じだったこと。事故以来、封印していたその記憶がよみがえってから、バイオリンを弾けなくなってしまったと。その梢に、おばあちゃんが言います。この言葉がとても印象的。

「あのねえ、梢。みんな自分のことは自分がいちばんよくわかってる、と思ってるだろう?自分のことなんだから、なんだって知ってるってね。でもね、そんなのは大まちがい。全部はわからないんだよ。自分のことだってね」

そうなんですよねえ。確かに、梢は交通事故を見てしまったことがきっかけで手が動かなくなった。それは、父親の事故の時の傷が発動してしまったこともあるだろうけれど、それだけでもないだろうと思います。12歳という、思春期の入り口である年齢であること。将来に対する不安。それは、例えば「魔女の宅急便」のキキが、いきなりほうきに乗れなくなってしまうようなことに近いのかもしれない。それまで何一つ疑問に思わずにやってきたことが、いきなり違うことのように感じられたりする時でもあります。これ、というはっきりした理由がわからないまま、出てくる症状に振り回されるのは、とても辛いことです。梢も、自分の手がどうして動かなくなってしまったのかわからないまま、それでもバイオリンのお稽古だけは続けようとします。一方、オーケストラの解散に身も心も疲れ果てていたお母さんは、綿町で倒れるように眠り続けます。

物語はそこから、母と娘それぞれの再生を描きます。私が面白いと思ったのは、お母さんの立ち直りが、「パンを焼く」という手仕事の喜びに繋がるリアリティで描かれるのに対して、娘の再生が、お父さんが残したどんぐりの魔法というファンタジーで描かれていくこと。お母さんは、故郷で、結婚前の自分のパン職人としての自分を思い出して再び自分のために生き始めます。それに対して、梢の再生の鍵は、ファンタジーが握っています。お父さんが残したどんぐりに導かれて、梢は小さな男の子に森で出会います。そこから梢に、お父さんの愛情がかけた魔法が次々に起こるんです。その輝きに導かれるように、梢はまた再びバイオリンが弾けるようになるのですが・・。人としての基盤が既に出来ていて、自分をコントロールすることに一日の長があるお母さんは、「パンを焼く」というリアリズムの物語の中で自分を取り戻す。でも、大きな無意識の領海の海を漂うような年頃の梢には、理屈では計り知れないファンタジーの力が必要だというのは、納得出来ることです。ですので、梢の出逢う「何か」に、期待しながら読んでいったのですが。梢の出逢う魔法は、お父さんの残した愛情に絡むとても優しい心温まる、好感溢れるものなんです。その発想自体は、いいと思うんですが・・。残念なのは、どう読んでも、お母さんの再生のほうがリアリティのある強さに満ちていて、梢の出逢うファンタジーが弱いんですね。それが残念でした。

お母さんが、水を得た魚のようにパン作りを思いだしていく様子は、読んでいて非常に楽しかった。目の覚めるような窯の中の火の美しさや手仕事の手ごたえは、この物語の中で煌めいています。その煌めきは、シロップ漬けを作るおばあちゃんの作業にもあって、身体で何かを作っていく喜びが人の心に与えていく尊厳のようなものを感じさせます。それに対して、梢の出逢う魔法は、ほのぼのしているのだけれど、「ほのぼの」より大きなものを感じさせてくれないんですね。梢の出逢うのは、日常の中の魔法なんですが、それだけに日常の中に起こって遜色のないだけのリアリティが必要です。でも、この物語の中では、「パンを焼く」方がキラキラした大きな奇跡に思えてしまう。そのバランスの悪さが、少し残念でした。まこと、ファンタジーを描くのは難しい。佐藤さとるさんがおっしゃる通り、「現実にはなかなか起こらないことを文章によって他人に伝えようとすることは、現実にいくらでも起こり得ることを伝えるより、ずっとずっとむずかしい」(「私のファンタジー」より・「空想の部屋」所収 佐藤さとる)のです。ファンタジーだから、少しの隙も、ご都合主義も許されない。確固たる貫かれた世界観と、磨き抜かれた細部がないと、魔法はあっという間に輝きを失ってしまう。その難しさを思いました。でも、物語の暖かさは十分にあるのです。だからこそ、もったいないなあと思いました。

ほしおさなえさんの、初めての児童文学だそうです。「みんな、みんなみんなきれいだ」と、この世界の輝きをバイオリンで歌う梢の音色のような物語を、これから、もっと読ませて頂きたいなと思います。

2011年11月発行
徳間書店

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この記事へのコメント

ときわ
2012年01月06日 16:27
あけましておめでとうございます。

私もこの本を年末に読みました。ほしおさんの作品ということで期待しすぎてしまい、ちょっとがっかりでした。あまりにも児童書すぎて。
この中ではおばあちゃんがいちばん良かったですね。おばあちゃんと言ってもまだ若いけれど。あんな人になりたいなとあこがれます。
お母さんは自分の母親がああいう人で幸せだと思う。お母さんのことを書きすぎて、梢がおろそかになったのでは?いっそあのお母さんを主人公にして、もう少し年齢の高い層を対象に書いた方が良かったと思いました。
ERI
2012年01月06日 21:58
>ときわさん
あけましておめでとうございます。今年もいろいろお話してくださいね♪

「いっそあのお母さんを主人公にして、もう少し年齢の高い層を対象に書いた方が良かった」
ああ、そうかもしれません。日頃ご自分がターゲットにされている層に向けた部分は、とてもよかったように思います。
「児童書すぎる」という感じ、わかります。ステレオタイプなんですよねえ。これは推測にしか過ぎませんが、ほしおさんは、「児童書ってこういうもの」という既成概念がおありだったのかもしれないな、と思ったり。それこそ無意識のうちに、どこかで読んだ児童書をなぞってしまったのかも。優れたファンタジーは、魂に語りかける力があると私は思っています。それは、子ども向けに程度を落として書くことでは、決して得られない果実です。
私も、おばあちゃん好きでした。あのシロップ漬けが、とても食べたいです。(そこかい!)(笑)