いま、ファンタジーにできること アーシュラ・K・ル=グウィン 谷垣暁美訳 河出書房新社

画像素晴らしい評論を読むと、頭が喜びます。日頃漠然と感じたり、考えたりすることが、見事に整理され、言語化されているのを読む喜び。頭の中に真新しい引き出しが出来る楽しみ。新しい目を開いてくれる知性に触れるのは、なんと嬉しいことかと思います。昨年後半、初めてル=グウィンの評論を読みだし、その的確な指摘と物語への姿勢に共感することしきりでした。その勢いで、『ゲド戦記』を改めて通読し、今ネットで彼女の本をぼちぼちと集めつつあります。この『いま、ファンタジーにできること』は、2002年以降の評論や講演、スピーチをまとめたもの。『夜の言葉』や、『ファンタジーと言葉』という既に邦訳されている評論集に続くものであり、ファンタジーやSF、文学に対するル=グウィンの一貫した主張の流れを汲んでいますが、まさに「今」のファンタジーについてル=グウィンが考えていることが、より明確に示されていると思います。昨年、これが発売されているのを知ってすぐに買い・・一体何度読んだことか(笑)読むたびに、いろんなことに気づかされる大切な本になっています。

私がファンタジーを読むようになったのは、大人になってからです。私は子どもの頃は、非常に背伸びをした読書を好む傾向にあったので、すぐにいわゆる大人の本、近代小説に埋没していたのもあって、ファンタジーというものに対して、大人になるまで漠然としたイメージを持っていました。ファンタジーとは、妖精や魔法使いや竜が出てきて荒唐無稽な闘いなどを繰り広げる勧善懲悪ものなんだろう・・という、まさにル=グウィンが言う詰まらない大人が持っている偏見丸出しのイメージです。ところが、です。大人になって、子どもを生んだことを契機にハマりだしたいわゆる子どもの本やファンタジーの世界は、深く豊かなものでした。そして、私がそこで思ったことは、全く当たり前のことながら、私が面白いと思う作品の尺度というか物差しは、他のジャンルのものと全く変わらないということ。私はファンタジーであれ何であれ、確固たる作品世界や文体を持っていて、限りなく美しかったり、愚かであったりする人間の真実をまるごと描き出そうとするものが、とても好きなんです。本読みの欲深さ丸出しでファンタジーの海にドボンと漬かった私ですが、既に自分の物語に対する物差しを確立していたのもあって、いわゆるハリー・ポッターから続いたブームに乗ってたくさん刊行されるファンタジーの多くを最後まで読むことが出来ない。物語の長短は関係ないんです。だって、トールキンの『指輪物語』や、このル=グウィンの『ゲド戦記』や、上橋菜穂子さんの『守り人シリーズ』は、寝るのも忘れて一気読みできるんですから。物語にはまり込む子どもの時のような読書体験の心震える喜びは、ファンタジーの醍醐味。しかし、です。あれだけ売れて映画にもなり、世界中にブームになったハリー・ポッターさえも、私は2作目から読めない。あの作品に漂う、言葉や登場人物の命、倫理観に対する無神経さに心がささくれる。そして、他の作品たちも、エルフやドワーフ、竜や動物たちが出てくれば即ファンタジーだよね、というものが多すぎる。物語というのは自由な世界ですが、その自由な世界を構築するためには、ほんの少しのゆるみも許されない揺るぎなさ、描こうとする真実を映し出すオリジナルな世界観が必要なんじゃないか・・などと、漠然と思っていたのですが、このル=グウィンの評論を読んで、まさに目から鱗。優れた知性の持ち主に自分の考えを整理してもらって、ちょっと頭がよくなったかのような錯覚に陥りました(笑)

「批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち」という項で、ル=グウィンはファンタジーに対する偏見について、たっぷり述べています。ファンタジーに対する批評家や学者たちの無知さ加減について。ファンタジーの持つ年齢を超えて読者に働きかける力が、この世界を知らない大人の偏見を生んでいること。そう、竜を論じることは恐れられるのです。それは、「現実」ではないから。リアルな大人の世界で利益をあげ続けることだけが大切すぎて、他のことはくだらないことにすぎないから。でも、その結果、この世界はまことに生きにくい、息苦しいものになってしまった。そのリアルを映し出す現代の小説も、袋小路に入り込んでいくようなものが多いように思います。反面、ファンタジー世界の地図は、大体において大自然の中の小さなコミュニティで出来ている。そして、慣れ親しんだ小さな世界の周りには、大きな未知の世界が広がっている。しかし、そんな場所は、今やこの地球上には存在しない。インターネットは、この地球上から未知の世界を奪ってしまったから。

知られていない国はない。どのブロックにもハンバーガーショップとコーヒーショップがあり、それが際限なくくり返される。・・・マンデルブロのフラクタル集合におけるように、ものすごく大きなものと非常に微細なものが、まったく同じであり。同じものは常に、おなじものへと繋がっていく。他者はない。逃げ道もない。・・・


同じもので出来た集合体は、脆い。どこかにヒビが入ると、あっという間に壊れてしまう。(萩尾望都さんの「銀の三角」の世界もそうでしたね)そんな今の現実を映すリアルな小説たちは、リアルであろうとすればするほど、絶望に傾いていくような気がしてならないんです。でも、ファンタジーは違う。そこは、果てしなく深く豊かな想像の世界です。徹底的に自由な世界を竜に乗って飛び続ける想像力が、このフラクタルな今を生きる若い心には不可欠なのではないかと私は深く思うのです。その自由な世界を生みだすために払われる緻密で誠実な努力と膨大な作業、蓄えられた教養がどのようなものであるのかが、ル=グウィンの文章の一つ一つから伝わってきます。優れたファンタジー作品とその書き手たちに対する敬意を改めて感じさせてもらいました。また、ファンタジーだけではなく、文学と名のつくものに対する論評としても興味深いものだと思います。

ル=グウィンは、善悪の闘いを描かない、と言います。人がいかに過ちを犯すものであるのか、そして、その過ちを犯すまいとして努力し、その間にもさらに過ちを犯すものであることを描くと。それは、まさに人間の丸ごとです。その弱さも苦しみも、闘いの苦しさも、そしてまたそこから歩き出そうとする行為の雄々しさも、すべてが人間なんですよね。だからこそ、優れたファンタジーからは、生きる力を貰えるような気がします。この本でも触れられていますが、ファンタジーが映画化になった際に、原作よりも格段に詰まらなくなってしまうのは、まさにその善悪の二元論に作り変えてしまうからかもしれません。指輪物語もそうだったしなあ。あの大作を、数時間のストーリーにしてしまうと、どうしてもそうなるでしょうし、何しろ二元論にしてしまうほうがわかりやすいし、映像にしやすいということなんでしょう。しかしどれだけCGを凝ったところで、物語の芯を骨抜きにしてしまったら、それはただの抜け殻です。ル=グウィンがそのような勧善懲悪の世界観をはなからもたないのは、彼女が文化人類学者の両親を持っていて、キリスト教的な世界観から解放されているからかもしれない、とも思います。だからこそ日本でこんなにゲド戦記は愛されているのかもしれないですね。

ああ・・いつまで書いても終わらない。ル=グウィンについては、まだまだ語りたいことがあるので、またきっとしつこく書きますが、今日はこれくらいで(笑)

2011年8月刊行
河出書房新社

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