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zoom RSS 八月の光 朽木祥 偕成社

<<   作成日時 : 2012/06/29 00:41   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 2

画像広島は、朽木さんのライフワークだ。この本には、広島の原爆をテーマにした連作『雛の顔』『石の記憶』『水の緘黙』が収録されている。アマゾンから週末に届き、何度も何度も読み返した。安易に泣いてはいけないと思うのに、後から後から涙が溢れて止まなかった。読めば読むほど、何をどんな風に書けばいいのか、作品の内包するものの大きさに打ちひしがれてしまうのだけれど、せめてこの作品を読んだ、自分の想いは伝えたいと思う。この三つの物語は、朽木さんがあとがきで書いておられるように、実在のモデルがある、何十万の苦しみのうちの、たった三つだ。しかし、この三つの苦しみは、かけがえのない命の記憶。シベリアで収容所生活を送った詩人の石原吉郎は、「三つの集約」(※)の中で、こう書いている。「一人の死を置きざりにしたこと。いまなお、置きざりにしつづけていること。大量殺戮のなかのひとりの重さを抹殺してきたこと。これが、戦後へ生きのびた私たちの最大の罪である」。数で告発しようとするものは、数の論理に負けてしまう。たった一年と少しで、原発の再稼働を許してしまうように。20キロ四方を死の土地にしたことを忘れ、経済を最優先させてしまった、この忘れっぽさは何だろう。当たり前だけれど、私たちは一人でこの世界と対峙している。死は、生はひとりひとりのものでしかあり得ないのだ。なのに、私たちはなぜそんな大切なことを忘れてしまうのだろう。「…私たちは、どのような大量殺戮のなかからでも、ひとりの死者を掘りおこさなければならない」(『三つの集約』より)時が経てば経つほど困難になる【記憶】の刻印に、真摯に向き合い、共有することで、私たちは確かな繋がりを手にすることが出来るのだと思う。その心の糸を繋ぎ、張り巡らせることだけが、ただのお題目になってしまいそうな「過ちは 繰返しませぬから」という言葉に命を与えるのではないか。この本を読んで、強くそう思った。

冒頭の『雛の顔』については、昨年いったんレビューを書いているのだけれど…。この連作の中に入ることで、若く美しいままに死んでしまった真知子が湛えていた命の気配が、あと二つの物語と共にあることによって、より強く立ち上るような気がする。母であると同時に、娘でもあった真知子。千里眼と呼ばれた祖母の孫だった真知子。朽木さんの文章はそぎ落とされたように美しくて、燃える桜が、お雛様のような真知子の命とが響き合って切ない・・・。これは3篇ともに感じることなのだが、美しい日本語が、悲しみとともに、光を湛えてきらめいている。きらめくがゆえに、よりくっきりと陰影を落として心に刻まれるし、そこに散華を捧げるような慈しみも感じるのだ。炎のような凄惨なあの日の記憶が焼きつくしてしまった昭子の言葉を、【今】に再生させる意味が、まっすぐ胸に落ちてくるようだった。

『石の記憶』は、石段に影を焼き付けて消えてしまった人の物語だ。一瞬にして肉体を失うほどの熱と爆風。私も、この石に焼き付いた人影のことは、知っているのだけれど。その影に焼けつくほどの想いで頬ずりする人のことを想像したことがなかった。なぜ、したことが無かったのだろう。あまりに衝撃的な目で見える事実に心がすくんで、その影の裏側にある、目に見えないものを想像する努力を放棄してしまっていたのかもしれない。ここに描かれる母と娘の営みは、ありふれた、人の営みだ。お互いを大切にしながら、ひっそりと暮らしを守る母と娘。どこにでもある、あなたと私の営み―それがきらめいてかけがえが無いのだということを、朽木さんの冴えた筆がスケッチしていく。だからこそ、石に刻みついた影に頬を寄せて、いつまでも凍りついていたのは、私かもしれないと思えるのだ。残されてしまった者だけがいる、止まってしまった時間も焼きつけて、影は私たちに記憶を伝えようとしている。その声を聞くことは、今の私たちを見つめることでもあると思う。

最後に収録されている『水の緘黙』は、この三篇に共通して流れている、【残されたもの】の心に寄り添う物語だ。『雛の顔』と『石の記憶』は、愛しい人を奪われた苦しみ。しかし、大きすぎる理不尽は、それだけではなく、その場にいた人たち皆に大きな傷跡を残す。「あの人たちを救えなかった」「そんな自分がどうして生き残ってしまったのだろう」という、苦しみ。これは、神戸の震災のさなかにいた友人も言っていた。あちこちで、救いを求めていた人がいたのに、何も出来なかった自分を責める深い悔恨の苦しみ。本当は、残ってしまった人たちも被害者なのだけれど、その苦しみはそんな理屈で切り捨てられるものではない。大体、切り捨てられる人なら苦しまない。人として一番綺麗な部分を握りつぶされることの残酷さが、ここに描かれる。主人公の青年は、自分の名前も想い出せぬままに、あの日に救えなかった少女を思い続けて彷徨い続けるのだ。こんな風に彷徨い続けている人たちは、今もどれほどたくさんいることか。去年の震災の時に、同じ想いをしたひとたちは、何万人もいるはずだ。

冒頭に置かれたオデュッセイアの詩句の効果もあって、この中編にはずっと音楽が鳴り響いているのが聞こえる。登場人物も名前を持たない。そのせいだろうか、この物語は、たったひとつのかけがえのない記憶であると同時に、大きな普遍性を持ちながら立ちあがっていくようなのだ。生と死のはざまを漂うような主人公の青年も、若い修道士も、死んでいった少女も、オルガンを弾く女の子たちも、ひとりひとりが私で、あなたであるということが、ただただ、胸に沁みていく。八月の光は残酷に私たちを照らすけれど、この苦しみの中にこそ、人が人であることの一番美しい光があるのかもしれない。だからこそ、私たちは忘れてはならないのだ。そこを忘れてしまえば、私たちは人であることも放棄してしまうことになる。こんな苦しい想いを、私はこれからを生きる子どもたちにさせたくないと、心から思う。でも、こんな想いがあることを、子どもにも、知って欲しいとも思う。これは、私たち皆が持つべき記憶だから。どうか、翻訳されて、海外の人たちも手に取って読んでくれるようになって欲しい。広島の記憶が薄れかけ、数の論理だけが勝ち残ろうとする今だからこそ、それはとても必要なことだと心から思う。


(※『石原吉郎評論集』 海を流れる河 同時代社所収)


2012年6月刊行 偕成社




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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
「死は、生はひとりひとりのものでしかあり得ないのだ」という言葉に頷いています。数で表してはいけないものですよね。
それなのに、起こった事件があまりに大きすぎて、それが、ひとりひとりの死と生が積み重なってなりたっているのだ、ということをつい忘れてしまいます。
忘れているということさえ忘れて、忘れていないつもりになっていた、と、この本を読みながら、何度も感じていました。
>私も、この石に焼き付いた人影のことは、知っているのだけれど。その影に焼けつくほどの想いで頬ずりする人のことを想像したことがなかった。
わたしもです。だから、この場面がとっても心に残りました。
こういう物語が、人の数だけあるんだ、ということをしっかり心にとめたいと思います。
石原吉郎という詩人、知りませんでした。ERIさんの引用された詩句、重たいです。
『石原吉郎評論集』読んでみようと思います。 
ぱせり
2012/07/03 13:30
>ぱせりさん
コメントありがとうございます。
私も、ついつい数の多さや規模の大きさに引きずられがちになるのです。ぱせりさんがおっしゃるように「忘れているということさえ忘れて、忘れていないつもりになっていた」んですよね。私もぱせりさん同様、読み終わったときは呆然としてしまって言葉が出てこないほど打ちひしがれました。
石原吉郎は、先日読んだ梨木さんの『雪と珊瑚』の中に出てきたんです。詩は昔に読んだことがあったのですが、評論は最近始めて読んだのです。そこに書かれていることが、まさに今とリンクしていることに、驚きました。とはいっても、まだ全部はちゃんと読み切れていないのですが…。ぱせりさんの感想も聞いてみたいです。
ERI
2012/07/04 00:26

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