父さんの手紙はぜんぶおぼえた タミ・シュム=トヴ 母袋夏生訳 岩波書店

画像「愛」と気軽に人は言うけれど。「愛」ってこういうことなんだよ、と説明することも、目に見えるように提示することも、あまりに難しい。その昔、向田邦子さんが、「愛」という言葉を聞くと、ゆでたまごを思いだすと書いてらしたことがあった。遠足のとき、同級生のお母さんが、娘のためにクラス全員に卵をゆでて持ってきた。お母さんが恐縮しながら渡すその卵の温もりが、当時学級委員だった向田さんは忘れられない・・そんな内容だったと思う。そして私は、これから「愛」と聞くと、この本のことを思い出すと思う。この中に収められている「父さんの手紙」に溢れているものは、もう「愛」としか呼べない大きな慈しみそのものだから。

今年ひとつめにあげた『ピートのスケートレース』と同じく、時代はドイツ占領下のオランダです。ユダヤ人の少女・リーネケは、ゲシュタポに捕まって収容所送りになることから逃れるために、ドクター・コーリーというオランダ人医師の家に、姪として隠れ住んでいました。そこに、地下活動をしている人たちを通じて、やはり別の場所に隠れ住んでいる父から手紙が届く。読んだあとは、こっそり処分しなければならない手紙であるにもかかわらず、ドクター・コーリーはリーネケにも内緒でこの美しい手紙たちを保管しておきました。この本は、その手紙を軸に、今は80歳近くになっているリーネケに話を聞いて、物語のように書いたものなのです。だからこの本に書かれているのは実話。書かれた手紙は今もイスラエルにあるし、リーネケも、その父も、実在の人です。リーネケの父・ヤ―プは、高名な科学者でした。有名な人だけに、見つかれば殺されてしまっただろう緊迫した苦しい地下生活の中で、娘に綴ったこの手紙は、静かなユーモアと励ましに満ちた美しいものです。表紙の写真に写っているのはその一部。これがもう、びっくりするほど可愛いんですよ。これはもう、是非この本で見て頂きたいと思います。

手紙は、一つ一つに美しい表紙がついて、ミニブックのような形に仕上げてあります。カラフルな明るい色遣いで絵文字をちりばめ、うさぎやシンタクラース(サンタクロースのこと)、花々や家族のシンボルで飾られた手紙は、驚くほどセンスが良くてキラキラに輝いていて、こんな手紙を貰ったら皆に見せて回りたくなるくらい誇らしい気持になることでしょう。でも、それは絶対に出来ません。この手紙を受け取ったリーネケは、一家の末っ子です。病弱で、大人しくて、飾りダンスの引き出しに自分の秘密を囁いたりする繊細なリーネケ。なのに、家族はバラバラに離れ、もしユダヤ人とばれてしまったら、自分だけではなく匿ってくれているドクター・コーリーも、奥さんのフェネットも、皆殺しになってしまうという重圧に耐えて暮さねばならない。10歳の少女には重すぎる現実です。父のヤ―プは、そんなリーネケのことが心配で、心配で仕方なかったことでしょう。でも、手紙には、そんな不安や苦しみは一切書かれていません。この手紙を開く時だけは、リーネケにくすっと笑っていて欲しい。手紙を開いた瞬間に、「うわあ、可愛い」と思って欲しい。娘の笑顔を想像しながらヤープが必死の想いを込めたこの手紙は、たったひとつだけ残っている、リーネケがこれまで生きていた日常と繋がるものなのです。失われてしまったリーネケの、家族の暮らしの暖かさがこの手紙には溢れていて、それだけに手紙の合間に綴られる当時のリーネケの逃亡生活の重みがまっすぐに伝わってきます。物が段々なくなっていく中で、フェネットのお誕生日に出された貴重な肉を、リーネケは食べることが出来ない。その肉が、ナチスに没収されないように声を出さないように縛られていた子ブタの舌の肉だと知ってしまったから。リーネケは、その子ブタと自分の境遇が重なってしまったことでしょう。何も言えずに生きていかねばならない苦しみに押しつぶされそうになる少女の想いがとても切ない。

戦争が終わったあと、リーネケの家族はバラバラになります。一家をまとめていた母も亡くなってしまった。実は、「リーネケ」というのは、逃亡する時につけた名前だったのです。でも、リーネケは、戦争前の元の名前に戻ることはしなかった。何も知らなかった平和な頃の自分から、はるか遠くにきてしまった・・そのリーネケの気持ちが、「わかる」なんて言ってはいけないんでしょうけど、やはり腑に落ちるのです。飲み込むには大きすぎる何かを抱えてしまったとき、「心を一つに」と言葉で言うほど、何もかも簡単ではない。そう思います。でも、その簡単ではない困難の中で、自分の命も顧みず、殺されようとする人を救った人たちがいた。この本の献辞に「戦争の真なる英雄―命を救った人々に」とあります。本中のお父さんの手紙に書かれている、待雪草の美しさを湛える言葉が、この献辞と響き合うように感じて、胸が詰まりました。

「待雪草についてだが、きみのいうとおりだ。
とてもひかえめな花です。
じっくり観察すると、おどろくほど美しい。
おくの深いところに黄金の心をもっている。
待雪草のそういうところを、
人間はお手本にできるね。」

人の美しさというものは、何か。それを、じっくり教えてくれる本でした。手紙を書いた父さんも、その手紙をちゃんと残してくれていたドクター・コーリーも、間違いなく愛の人、「おくの深いところに黄金の心をもっている」人でした。その想いが、こうして残っているのは、ほんとに貴重なことだと思います。

2011年10月刊行
岩波書店

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