東京公園 小路幸也 新潮社

画像「写真を撮る」ということが、私にはどうも苦手だ。
これは絵を描く、ということにも繋がるのかもしれないけれど、
私が写真を撮ると、なにやらボケる。いや、ピンボケではなくて
ちゃんと写ってるんですが、自分の撮りたい、と思ったものは写っていない
んですよ。どうも、それはファインダーの向こうで私の前から逃げて
いってしまうらしい。私が撮りたいのは、多分その時の空気とか、匂いとか、
その対象を取り巻く風のようなもの。それを切り取る人の感覚、というものを
私は知りたいな、と思う。この物語の語り手である圭司は、写真を撮ることを
生活の軸にしている青年。ファインダーを通していないときも、その視線は
相手の何かを切り取ってしまう。そうして切り取ったものを弄ばない誠実さが
とても好ましく、この物語の中を流れる、おだやかな空気を作っている。

圭司は大学生。亡くなった母の影響で写真を撮り出し、今は公演を回って
家族の写真を撮ることに熱中している。ある日、ふと一組の母娘を撮影
したときに、その夫から、秘密でその母娘が公園に行くたびに、内緒で
後をつけて写真を撮ってくれないか、と頼まれる。その若い母親の百合香と幼い娘
のかりんが、かもし出す雰囲気に惹かれていた圭司は、その役目を引き受ける。
天気のよい日に、必ず公園に出かける妻が何を思い、そうしているのかが
一回り年上の夫にはわからないのである。圭司は、二人が公園に出かける
たびに、二人から少し離れたところから、カメラを向ける。
しかし、しばらくそんな日々を続けるうちに、百合香が、圭司が写真を撮っている
ことに気づいている気配を、圭司は感じる。一言も交わさないうちに、撮るものと
撮られるものとして、言葉にしないものを交わす、その体験が圭司に百合香への
思いを開かせようとする・・。


「恋」というには、非常に淡い彩だけれども、この二人の間に流れるものは、やはり「恋」
の一種なのだろう。「恋」が、その相手に惹かれ、自分の中にその存在を取り込む
ものであるとするならば。「自分」の領域の中に、その人が入ってきてしまう。
手を握ったり、抱き合ったりしなくても、それはやはり「恋」なんだろう。
しかし、圭司は、その気持ちを持て余したり、その思いにイラだったり、投げ捨てようと
したり、そういう荒いことをしないのだ。それがどういうことなのか、なぜ百合香が
自分を撮ることを圭司に許しているのか。そして、そういう百合香のことを、自分は
どうしたいのか。それを、焦らず、じっくりと受け止める。その誠実さが、読んでいて
とても心地いい。そして、その誠実さは、圭司の周りの人たちに対しても、同じように
発揮される。同居しているイケメンで、いろんな方面での表現者を目指しているヒロ、
幼馴染で、行動派の富永という女の子、そして義理の姉の咲実。それぞれが、
その受け取り方と深さに違いはあっても、皆圭司に惹かれ、自分の一部のように
思っている気配。

特に咲実は、圭司に恋をしているらしい。それを富永から指摘された後の、圭司の行動が、
いい。普通なら、意識して急に避けたりしそうなものだが、圭司は、咲実の写真を
わざわざ撮りにでかけるのだ。ファインダーを通して、その彼女の思いと、自分達の関係を
きっちりと捉えようとし、フイルムに焼き付ける・・・。
決してきちんと答えを出したわけでもないのだけれど、そうすることで、そのお互いに
流れるものを圭司は形にすることが、できるのだ。それを言葉にして説明するより
雄弁に、「今ここにあるもの」を捉える。そうすることによって、圭司はたくさんのものを
失わずに、大切にすることが出来る・・・。こんな風に、世界を捉えられるということは、
強いことだな。そう思う。それは、表現するものとしての資質でもあるのだろう。

百合香がなぜ公園に行きたがっていたか、圭司は気づいていた。
もしかしたらその百合香の心に少し開いていた隙間に圭司は入り込んで
いたのだけれど、決して彼はそこに自分をねじ込まない。
優しい水のようにお互いを流れた感情をそのままに、圭司は百合香の幸せを
こわさず、その願いを夫に伝える・・・。だから、百合香の笑顔は、曇らない。
圭司を中心とした人の心が、綺麗に環を描いて繋がっていくような、おだやかで
柔らかな世界。こんな風に人と人とが繋がることができたら、どんなにいいだろう・・・。
こんな風には、現実はなかなかいかないけれども。
こんな優しさの中に身を浸していた数時間、心はとても凪いで心地よかった。
こんな世界が、あっていい。いや、どこかにあってほしいな、そう思う。

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